荒井浩通のブログ/スタッフブログ/株式会社エルシーアール

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荒井浩通のブログ
2017.10.19 Thursday

どん底からの発想がビジネスモデルの鍵

 

業界初のブランド品買取専門店として知られる「エコリング」(本社:兵庫県姫路市)。創業は2001年で、すでに年商100億円を突破し、ブランドリサイクル業界の第4位となっている。現在、関西、関東、東海地区を中心に多店舗展開をし、更に、香港出店を皮切りに中東のドバイ、フランスなど6か国に店舗を構え、「アジアNo.1
企業」を目指している会社だ。
そんな会社の社長である桑田一成 氏の半生は、とてつもないジェットコースター人生のようだった。

 

●波乱万丈! 元官僚からの転落
桑田社長は、姫路出身。桑田家は代々医者の家系だったが、11代目で医者は途絶え、14代目にあたる。
父親は消費者金融を経営していたが、小学校の頃に父親の会社が傾き、やがて両親は離婚した。その後、桑田氏は、日本大学の獣医学科に進んだ。
しかし、どういう訳か、卒業後、郵政省に入省し、30歳で退職してしまった。
何故かと言えば、丁度その頃、郵政民営化が叫ばれていて、将来に不安を感じたのが、退職の理由という。その後は、当時、世間でもてはやされ始めていたプログラマーとして独立の道を選ぶ。が、これも結局、うまく行かず、2年半ほどで、資金がショートし、極貧状態のどん底に落ちてしまったのだ。

 

●どん底からの逆転
その当時の逸話には、こんなこともあった。
桑田氏は、何らかの収入を得なければならず、自分の身の回りの物を売ることにした。当時は、ネットオークションの初期時代であったが、桑田氏は、資金調達のために、身の回りの物をどんどん売り払い、やがて売れる物がなくなってしまったのだ。
そして、どうしても仕入れなければならない状況に追い込まれ、知り合いの質屋に、消費税の5%を負けてもらって仕入れて、インターネットに出品した。
その結果、店頭より高い値段がついた物もあり、いい収入になるなというのがわかったのだった。この得難い体験が、後のビッグビジネスの発端となるのだ。

 

●借金にまみれ、そして融資も断られた
片手間でプログラムをつくりながら、そんな中古品を販売していたが、生活は困窮を極めた。当時は、借金取りから毎日のように電話がかかって、精神的にも追いつめられ、仕事も手につかないありさまだった。借金の額は、闇金屋から500万円ほど。
世間知らずの公務員であったためもあり、消費者金融ではなく、闇金屋に行ってしまったのだった。何とかと思い、融資を受けるため、国民生活金融金庫(国金)に融資500万円を申請した。
しかし結果は、完璧のビジネスモデルの書類をつくったにもかかわらず、あっさりと融資を断られてしまう。困った桑田氏は、毎日電話をかけてくる闇金業者を説得し、2か月間催促の電話を止めさせた。目的は、集中してプログラミングをつくるためであった。
そして2か月間の努力の甲斐あって、販売用のプログラムが完成した。運良く、そのプログラムもある企業に売却出来、何と2200万円が手に入った。当初の借金は500万円だったのが、いつの間にか750万円に膨らんでいたが、完済が出来たのだった。
そして、手元には750万円が残ったのだった。

 

●ボロボロでもクタクタでも買い取ります!
手元に残った750万円。それを元手に、何を起業するか考えた挙句、結局、オークションのビジネスをすることにした。2002年9月、故郷の姫路市に1号店をオープンした。それは今の原型となる買取専門のショップで、「ボロボロ・クタクタ」を買い取るという広告を作成したのだった。
チラシには、そのキャッチコピーを書き、新聞の折り込み代もなかったことから、自分の足でポスティングをした。開店当日、店を開けると、どっとお客さんが来店したのだった。このビジネスモデルは、買い取り専門がゆえに、お客さんが来れば来るほど、その場ではどんどん貧乏になっていくモデルだったのだ。貧乏には拍車がかかり、追われるようにドンドン売りさばくことで、あれよという間に、売上がグングン伸びたのだった。そして、創業3年目で年商10億の企業にまで発展してしまったのだった。

 

●組織づくりへの奮闘
それからは、人材の育成にも力を入れた。普通、鑑定士と言うと、10年近くかかると言われるが、この会社は、半年で鑑定士を育成してしまう。難しいと言われる鑑定のノウハウを、分かりやすく全部図解にしてしまったのだった。今では、鑑定士が120人くらいまで育成することに成功した。
そして、現在は、海外にも展開する成長企業へと発展させていったのである。

 



2017.07.12 Wednesday

食の不均衡をなくす社会貢献で地球を救え!

 

●1食20円の寄付で、貧困を救え!
今、1食を食べる際に20円を途上国民の食事に寄付をするという、新しい社会貢献の動きが全世界に広まりつつある。「食べ過ぎの先進国」と、「食料不足の途上国」をつないで食の不均衡を是正し、双方の健康改善を目指す。小暮真久氏が代表を務めるNPO法人TABLE FOR TWO International(テーブル・フォー・ツー・インター
ナショナル、以下TFT)である。その主な事業である「食堂プログラム」では、先進国の食堂にて肥満や生活習慣病予防のためのカロリーを抑えたメニューを提供し、売上の一部(=抑えたカロリー)を寄付とし、途上国の子どもたちへ給食という形で届ける。

世界経済フォーラム(通称・ダボス会議)における日本人参加者のディスカッションから生まれたこの仕組みは、2007年の発足以来、2,300万食をウガンダ、ルワンダ、タンザニアなどアフリカの国々に届けてきた。また、現在では国内600以上の企業・団体と連携し、アメリカ・フランスなどの欧米、そして香港・韓国・ベトナムなどアジアを含む世界11カ国に拡大している。(2013年10月末時点の実績)


●時と場所を超え、「おすそわけ」を届けるTABLE FOR TWOストーリー
TABLE FOR TWOの仕組みは、ダボス会議での日本人参加者の対話から生まれ、そのコンセプトを託された小暮代表が、その事業を形にしていった。TABLE FOR TWOが誕生した瞬間は、まさに偶発的なものであった。

それは、ダボス会議のヘルスケアに関する分科会で、ひとつのグループが肥満について、他方では飢餓についてディスカッションしていた時であった。それぞれに参加していたメンバーの間で、「この問題は、別々の社会課題のように見え、食の不均衡という意味で、根底ではつながっている。同時に解決することはできないか?」という議論になったそうだ。

その後、日本に持ち帰って何度か議論しているうちに、食を通じて先進国と途上国の健康改善を同時に実現するというTFTのコンセプトが生まれたのだ。また、TABLE FOR TWOという仕組みには、日本的な思想や習慣が宿っているとも言われている。
日本には、「腹八分目」や「足るを知る」という言葉がある。とかく先進国の人々は、食べたいときに食べたいものを、食べたいだけ食べてしまうという飽食の日常が当たり前になっている。そんな現代の悪習慣を少しでも自制し、食に関しての「足るを知る」を現代版の形に表したものが、TABLE FOR TWOの仕組みなのだ。まさに時と空間を超えた「おすそわけ」ともいえる。

寄付金の集め方にしても、同様な日本的な思想が入っている。通常、欧米などでは、大口の寄付者を募って集めるという傾向があるが、TABLE FOR TWOは、一般庶民の日々の食事に紛れ込ませて、それと意識せずに寄付ができるようになっている。これもまた日本人特有の陰徳の文化でもある。


●幼少期の母の思いがきっかけとなり
そもそも小暮氏が、この「ソーシャルビジネス」という世界に興味をもったことだが、これは幼少期の母親の影響が大きく関わっているようなのだ。小倉氏は、小さい頃から母親に「世界平和に貢献する人になってくれたらいいな」と言われていたという。小倉氏には、子ども故に「母親は、何を言っているんだろう?」と思っていたようであった。しかし刷り込みというのは、後になって効果が表れてくるのだろうか。

大学では、人工心臓の研究を通していたが、これもまた社会に貢献するという道を選んでいたのだろう。

小暮氏は、大学を卒業するとアメリカのコンサルティング会社に就職するが、どうしても不完全燃焼で、フラストレーションがたまっていたのだ。そんな折、30半ばにして、「世界平和に貢献する人になる」という言葉が思い浮かんだという。これが、TABLE FOR TWOの始まりだった。


●これからのビジョン展開
現在、TABLE FOR TWOでは新たな中心メンバーを拡大し、その活動範囲を広げる予定だそうだ。特に「一生懸命やりたい」という情熱のある人で、ベンチャー魂があり、強い想いをもって仕事に取り組む人が絶対に必要だとのことだ。更に欲を言えば、家族や友人を大切にする人がいいという。

それは、TABLE FOR TWOは、「人の命を救う」仕事であり、人に無関心な人では不適格なのだそうだ。今後も、小暮氏のビジョンは、同じ志を持つ仲間とともに、全世界へと転化していく。

 



2017.04.28 Friday

日本の“伝統技術”を逆転の発想で蘇らせる

 

 今、「キモノ」の業界では、驚くべき動きがグローバルな視点で起きている。この業界と言えば、利用者が減り、斜陽産業と見なされていた分野であることは、誰もが知るところである。


 注目を集めているのは、着物の和素材を取り込んで、イスラム教徒のムスリム衣装に転用させる企業である。そしてもう一つが、「京黒紋付染め」という羽織などを黒く染める伝統技術を生かして、洋服の古着をリメークする企業。どちらも、苦境に陥る業界でありながら、生き残りをかけて伝統産業の「強み」にかける点が共通点である。

 

【ムスリム × 着物】 〜 愛媛県の伝統織物「ふく紗」〜
 愛媛県松山市内にある「ふく紗」。日本の伝統的素材の繊維製品を製造・販売する企業(愛媛県松山市・伊東信二社長)である。同社は、インドネシア国内にある高級ムスリムファッションブランド「シャフィラ」のバンドンの店舗で日本の伝統的な織物を使ったムスリムファッションのショーを開き、その店舗でムスリム風にアレンジ
した着物素材の製品を販売している。

 ふく紗とシャフィラの仲介役となったのは、一般社団法人日本ムスリムファッション協会である。実は、日本の着物とムスリムファッションを比較すると、共通としてあがってくるのが、「1.手と顔以外が隠れている」「2.透けない素材である」「3.体の線が隠れている」の3点なのだそうだ。ふく紗は、その原則を満たした「着物スタ
イル」の服を製造した。

 

 インドネシアではここ数年でムスリムファッションのデザインや色が多様化しており、受け入れられる可能性が大きいことが予想されている。但し、課題は高級素材である着物の価格面である。同社が手掛けるリサイクルの着物を使っても、ムスリム向けの服で採算をとれるのはスカートと上着、スカーフのセットで、最低でも8万〜10
万円ほどだ。そこで今後は、着物で使われる絹が高価なのを考慮し、安価な化学繊維を使って「安く和柄のイメージを楽しんでもらう」展開を視野に入れているそうだ。
 いずれにしても日本文化が、海外に受け入れられビジネスマッチングすることは、斜陽産業の業界にとっては、明るい兆しだ。

 

【苦境の伝統技術"京黒染め"が古着再生で復活!】〜 100年の伝統「京都紋付」〜
 紋付というと、家紋の白を際立たせるために、生地の黒さが求められる。その生地の黒さについて、「京都紋付」は独自染料で突き詰めている。
 しかし、紋付の需要は減少傾向にあり、1996年に12億円あった売上げは、現在6億円にまで落ち込んでいる。そこで、京都紋付では「BLACKYOTO」という新しいブランドを立ち上げ、染色技術を用いた洋服の黒染めに進出した。

 イギリス・ロンドンでひときわ賑わう高級セレクトショップ。若者が手にしていたのは、真っ黒なTシャツやズボンである。一見すると、イギリスならではの素材で作った製品に見えてしまうが、実はこれが京都紋付でつくられたズボンなのである。売り場には「BLACKYOTO」の文字が堂々と出され、この鮮やかな黒い洋服が、来店
者の視線を集めている。そしてこれが、京都の伝統技術である黒染めの技術でつくられたものなのだ。

 

 製作者は、京都市で100年の伝統を受け継ぐ「京都紋付」である。「京都紋付」と言えば、日本で唯一鮮やかな黒染め技術を持つことでも有名であるが、現在は、着物の需要が減少したことをきっかけに、洋装にも参入し、独自のブランド「BL−WHY」も立ち上げた。
 

 また、古着を黒く「染め直し」するリサイクルでの取り組みも注目を集めている。それは、汚れや色あせが隠れるだけでなく、おしゃれ感覚で人気にもなることがポイントとなった。

 

 そしてこれに目をつけた企業があった。リサイクル分野でも指折りの「ゲオホールディングス」が、大量発注をしてきたのだ。ゲオは、リユース市場が拡大するなか、付加価値をつけて「セカンドストリート」の古着を黒に染め替え、他社との差別化で、新たなブランドを立ち上げたいと考えていたのだった。今後、この黒染めの技術を新たな分野に如何に展開していくか。日本の伝統技術が、新たなステージに立つ日も遠くはない。



2017.02.09 Thursday

『社員満足・早起き・コスト意識』が強さの秘訣

 

 菓子問屋の吉寿(よし)屋は、創業53年を迎えた。関西を中心に100店舗以上展開し、卸売りのほか、専門店「お菓子のデパート よしや」という直販店を経営している。しかも小売店の価格は定価の約2割引きだ。

そんな会社を支える経営者は、両名とも70歳を過ぎた創業者の神吉武司氏と、仕入れ部門で兄の武司を支え続けてきた現・会長で弟の秀次だ。

 

●早起きは三文の得
 会長の秀次は朝3時すぎ、創業者の武司は朝5時に出社し、倉庫に並ぶ“お菓子”に感謝の気持ちで挨拶。
「お菓子のみなさん、お早うございます」と挨拶する。彼らにとって、お菓子はモノではなく、愛すべき人のような存在なのだ。従業員と商品に対しては、愛情と感謝を抱き、誰よりも多く働くのが信条だ。経営陣でありながらも、彼らは、後から来るパートのために、メーカーから届いた段ボールを二人で500個を開けていく。「早起きは必ず繁盛につながる。」これが吉寿屋の口癖だ。

 

●徹底したコスト意識
 1円の利益を積み上げることを重要視している二人。例えば、仕入れに対しての厳しさ。そして、モノに対する考え方も社内では徹底されている。特にモノに対しては、社員が使うペンは1本のみ!ペンには一人ひとり名前が
貼ってあり、簡単に失くしたりしないようにする。そして、インクがなくなれば、当然のように替え芯を使う。さらに替え芯を使う際はリストに書いて徹底した管理を行う。午後3時の休憩タイムの15分前は駆け足タイムの放送がかかり、15分間は社員全員駆け足で移動する。移動時間を早く行うことで、生産性を高める工夫を色々なところで
実施している。さらに、倉庫の荷物は壁から5センチの隙間を空けることで、荷物の持ち運び時間が短縮できるという。

 

●利益は、社員の幸せに還元する
 社員に対しては、年間7000万ほど利益を還元しているという。例えば、売り上げが良かった店長に500万円を進呈したりする。また、月に一回の社員ジャンケン大会では、大型テレビや炊飯器、あみだくじで当たれば金の延棒など、社員、パートさんに大胆に振る舞う。最優秀社員には年俸3000万円を支給したこともあるそうである。まさに会社の利益をそのまま従業員に還元している会社なのだ。

 

●独自の工夫も強さの秘訣
 1986年には、「お菓子のデパートよしや」をオープン。武司氏は、その店に様々な工夫を詰めこむ。例えば、お菓子が良く見えるように平台に陳列し、さらに商品を種類別では無く価格別で並べた。兎に角、仕掛けが独自で、売上げは順調に伸び、連日大盛況となっていった。その後は、順調にチェーン化を進め、現在100店舗以上という快進撃を続けている。

 また、創業時から仕入れを担当する、現・会長で弟の秀次氏は、創業以来、仕入れの経験を生かし、週1回の商談会で、メーカーが持ち込む商品を全て試食し、売れる商品を見極めていく。兄弟二人三脚で、独自性のある取り組みと仕組みを作り上げたユニークさが、「吉寿屋」の強さの秘密なのである。



2016.11.30 Wednesday

『何もない』がある 〜ムーミン列車〜

 

現在は、観光列車として高い人気を誇る「いすみ鉄道」。しかし、数年前までは廃線の危機にさらされていた。
その鉄道路線を、V字回復させた男こそ、200年の公募で社長に就任した鳥塚亮氏だ。
元々は、外資系航空会社で勤務していたが、地方のローカル鉄道のトップになると一大決心した。

 

●型破りな手法でローカル線を救う
社長公募によっていすみ鉄道に入社した鳥塚氏は、「いすみ鉄道再生委員会」による存廃判断期限である翌年3月までのわずか9カ月で結果を出す必要があった。
実は、前任の社長が収支検証期間の2年のうち1年3カ月をすでに消費してしまっていたのである。
もちろん、いすみ鉄道には、派手な戦略を展開する資金はとてもない。さて残された9カ月という短い時間で成果を上げるためにはどうするか・・・
そこで考えた手段は、女性をターゲットにした「ムーミン」というキャラクターであった。
千葉県房総半島の山間から外房にかけて、わずか26.8キロを14の駅で結ぶローカル線「いすみ鉄道」。休日、菜の花と桜の間を走る長閑な眺めを楽しもうと、観光客で列車内は満員電車のような混みよう。
ムーミンファミリーはみんなで仲良く助け合い、自然と共生しながら生きている。
しかも、話の内容が、30〜40代の女性に人気がある。
加えて、女性の観光需要を見込めるキャラクターだと、社長就任以前から温めてきたアイデアだった。
案の定、売店は女性客で大賑わい。皆が夢中になっているのは、人気車両“ムーミン列車”にちなんだムーミングッズだ。

 

●経営が好転し、地元も一体に
するとどうだろう、テレビや雑誌など、マスコミの取材が増え始めた。
鉄道というものは不思議なもので、ムーミン列車がローカル線を走るというだけで、マスコミの興味を引く。
そして、マスコミに取り上げられると、沿線住民の視線も違ってきた。地元の鉄道がテレビで紹介され、地元の人たちが「応援していこう」という雰囲気になってきた。
また鳥塚氏は、地域に住み、溶け込みながら、先頭を切って外部に広くアピールし観光客に足を運んでもらったりもした。
経営改善の兆しが見えた2010年3月、収支検証期間終了時に「あと四半期の経過観察」という嬉しい結論が出たのである。
こうなると、流れというものは止まらず、ゴールデンウイークの観光シーズンにも通常の10倍以上の人が訪れた。そして8月、ついに正式に存続が決まった。
その後も普通旅客つまり観光客は毎年10〜15%上昇し続け、土日には従来の3〜4割増しの観光客がいすみ鉄道を訪れている。

 

●次の一手は、「キハ52形」
「キハ52形」と聞いてピンと来る方は、かなりの鉄道マニアではないだろうか。
現在、国鉄型ディーゼルカーとしては最も古いのが、「キハ52形」(昭和40年製造)である。
マニアの心をくすぐる「国鉄の残党」であり、希少価値が非常に高いこの車両を、廃車寸前の状況からJR西日本と交渉して手に入れた。
修繕費、運搬費含めて約3000万円。お披露目には1000人を超える鉄道マニアが集結した。いすみ鉄道のキャッチフレーズは・・・
『「何もない」があります』
いすみ鉄道自身と、その沿線に広がる飾り気のない自然そのもの素材を、しっかりと楽しんで来てもらえばよいという意味だそうだ。
ローカル線をブランド化する戦略、それは大掛かりな設備投資ではなく、人々の琴線に微妙に触れる方法なのである。



2016.09.20 Tuesday

「”感動分岐点”を超える!」

 

経営にも「損益分岐点」があるように、心の中にも、「この程度でないと感動しない」という分岐点がある。
こう話すのは、リピーター続出の驚き再生術!として知られ、これまでに足利フラワーパークを園長として再生し、現在、はままつフラワーパークの理事長を務め、樹木医でもある塚本こなみ氏である。


●赤字続きだった植物園を日本一のフラワーパークに
入園者数の伸び悩みや経営難にあえいでいた植物園を、見事に復活させた樹木医。
塚本氏は、女性初の樹木医となり、木の声を聞くプロフェッショナルとして経験を積む中、ある出来事がきっかけで植物園の経営に参画した。
それは、赤字続きだった足利フラワーパークへ、140年以上の大藤を移植することだった。
それが縁となり、入園者の気持ちに徹底的に寄り添った「型破りの発想」で、赤字続きだった植物園を“日本一のフラワーパーク”に生まれ変わらせた。


●お客様を呼ぶ驚きの宣伝術!
あしかがフラワーパークの園長に就任した塚本氏は、「藤」を一人でも多くのお客様に見てもらうために、奇手を思いつく。
足利フラワーパーク近在の「藤」の名所と言われる、埼玉・春日部市「牛島の藤」、群馬・藤岡市「ふじの咲く丘」、東京・江東区「亀戸天神社」の周りで「あしかがフラワーパークの世界一美しい藤のガーデン」のチラシを60万部も配布
したのだ。
ご当地の「藤」を誇りに思っている近在の住民に対して、一度、「あしかがフラワーパーク」の藤を見れば、どっちが世界一か比較できるとの陽動戦術で、来園を促したのだ。
こうして、ライバル園の地元住民に、あしかがフラワーパークまで足を運ばせることに成功し、それまで20万人だった入場者数を110万人にまで伸ばすことに成功したのだった。


●「感動分岐点」への大胆変革
一年中、花が見ごろということはない。塚本氏は、園長として再生を請け負った「あしかがフラワーパーク」を、これまであまり聞いたことがない変動料金制へと変革したのだった。
・花の見ごろの3月〜6月は、600〜1000円。
・暑くて外出したくない夏の7〜9月は、無料。
・寒くて億劫な秋冬の10〜2月は、500円で、500円のお買物券付。
理事長を引き受けた際に調べた結果、年間入場者の65〜70%は春、7月は2%と極端な開きがあった。
そこで、この現状を踏まえた料金設定なのだ。従来の年間を通して800円という固定料金(固定概念)を払しょくしたテーマパー
ク経営。全ては、お客様の満足のためにというのが、モットーだった。
そして従業員の意識改革のために考えられた新たなキャッチコピーが、「世界一美しい 桜とチューリップの庭園」となった。


● 従業員のやる気を引き出す秘訣
塚本氏が、「藤」の移植を手掛けた44歳の時に、この移植を任されていたのが50〜60代の庭師達であった。
プライドが高く、一本気な性格の職人たち。そんな彼らに言った言葉は、こんな感じだった。
・私の指示通りにやってください、まずやり方を説明しますから
・もっといいやり方があったら教えてください
・ただし、最終的に私が決めた事には従って頂きます
・この移植は上手くいったら皆さんのおかげ、失敗したら私の責任です
「なにクソという思い。仕事で結果を出す。そして責任を持たせる。」その心に火をつける。そうすると、人は動くと塚本氏はいう。

女性初の樹医である塚本こなみ氏。彼女が起こすフラワーパーク復活の奇跡の後ろには、こんな戦略的な数々の発想があったのだった。



2016.05.19 Thursday

子供たちが大喜び!廃棄野菜で作ったクレヨン革命

 

【おやさいクレヨン ベジタボー】
野菜や果物を使って作られたクレヨンが、いま人気となっている。その名も「おやさいクレヨン ベジタボー」。「赤」「青」「黄」といった色ではなく、「ほうれんそう」「りんご」「とうがらし」など、野菜や果物の名前が書かれている。

 

実はこのクレヨン、形が悪い、傷があるなどの理由で捨てられてしまう廃棄野菜を使って作られている。手掛けているのは、青森市にあるデザインワークスSTmindの木村尚子さんだ。

 

小学生の娘さんがお絵かきが好きなことから、クレヨンの製作を思いついたという。木村さんのアイデアに、地元の農家も喜んで協力してくれることになった。
 

実は廃棄野菜を処分するのにも多額の費用がかかる。少しでも活用できれば、農家も助かるのだ。そうして集めた廃棄野菜を、名古屋市の町工場が試行錯誤の末にパウダー状に加工。それをクレヨンに仕上げてくれた。木村さんはいま、廃棄野菜を使って、クレヨンに続く新たな商品の開発に乗り出している。果たして、どんな商品なのか?

 

【小さな部屋から、大きな挑戦を】
デザインワークスSTmindは、青森駅前の閉館した映画館をクリエイティブハブとして再生したBLACK BOX内の、かつて映画チケット売場だった小部屋にある。ここから、お野菜クレヨン「vegetabo」の開発ストーリーが動きだした。

 

まず彼らが考えたことは、自然な素材そのものの色を表現できるツールがつくれないかということだった。地方独立行政法人青森県産業技術センターの村中文人氏を六次産業化アドバイザーとして迎え、事業を進めることになった。

 

議論の過程では、素材テストを重ね、野菜が自然に放つ色彩に着眼し、それをクレヨンというツールによって、“規格としての色の概念”を超えて、色素成分として本物の野菜を使用して野菜そのものの色を表現するという
アイデアに至った。

 

【「野菜色のクレヨン」に好奇心を抱いたクレヨン職人との出会い】
開発は簡単ではなかった。初期段階、ロウを溶かし、野菜ペースト等を練り込み、製氷機で成形したが、とてもクレヨンには程遠い物が出来上がってしまった。
ここで事態を好転させたのは、「やさい色のクレヨン」の開発にとても積極的に
協力してくれることになった(株)東一文具工業所の水谷さんとの出会いだった。

 

水谷さんは好奇心に溢れ、色々なアイディアを提供してくれた。色の定着はとても難しく、様々な野菜で試作を繰り返したが、野菜そのものの特徴が大きく出てしまい、クレヨンとしての描き味や、紙への定着させることは、水谷さんにとっても至難の業だったようである。


それでも水谷さんは、あらゆる方法を試みて、国産玄米を搗精(とうせい)した際の副産物である“米糠”からとれたライスワックスと米油を使用した。クレヨン作りには難しい素材である野菜粉末と、無機顔料という食品添加物にも使用されている顔料をほんの少し加えることで、野菜本来の色を生かしながら、滑らかな描き味をもつクレヨンを見事に製品化することができた。

 

【食料自給率は115%ではあるが・・・】
青森県の食料自給率は115%と、国内で最も高い割合でありながら、生産された野菜の全てが食される訳ではない。
形が悪い・傷が有るなどの理由から規格外商品として流通から外される大量の野菜。残さ利用を、積極的に行い子供たちの喜びに変える作業。それは、これからの世界の人々が再考していかなければならないことなのであろう。



2016.03.31 Thursday

奇跡のスーパー福島屋〜思いを本当に浸透させることこそ、社長の仕事〜


●“顧客が集まる”より、“顧客が喜ぶ”スーパー
40年間黒字経営を続けている福島屋という、東京・羽村市で創業したスーパーがある。
創業者の福島徹氏は、以前「売る」ことを必死に続けた。
その挙句、売れ残ったイチゴを売るために、深夜に行き交う車を止めてまで、根性で売り切ろうとしていた時代もあったほどだった。
ともすれば、誰でもやってしまいがちな事だが、お客様が買いたいのではなく、売り手が売りたいから売るということを推し進めるこの行為。
そんな時代もあった福島屋は、今は売り込むのではなく、なぜ勧めるのかをお客様に説明するのである。

●チラシを出さず、安売りもしない・・・
価格だけの競争から抜け出し、本当にお客様が欲しいと思っているものを提供する。
福島屋ではスーパーならどこもやっている、折り込みチラシをやっていない。
以前は、他社と同様に折り込みチラシをやっていたのだが、ある時止めてしまったのだ。
一時はそのせいで、集客も、売上も減ってしまったそうだ。しかし、それでも、非常に良かったと福島氏は言っている。
通常、チラシを出せば集客はできる。しかし、価格の競争をすることになり、どこかに無理が出てくることに気づいた。
福島屋は、この悪循環を断ち、今では、他点と比べれば高いと言われる商品でも売ることが出来るようになった。
例えば、1本580円の高級牛乳やイワシの削り節など。少し変わった商品がずらりと並ぶ。
こうした商品の多くは、会長の福島が全国を飛びまわり発掘してきた商品である。
何と福島社長は、1年の3分の1を素材探しに費やしているそうだ。更に、福島は、商品選びだけでなく、商品の見せ方や、情報の伝え方を徹底的に研究しているのだ。

●お客様・取引先・社員に思いを伝える
経営者の思いを「お客様」だけではなく、「取引先」や「社員」にも伝えることはできているだろうか。
どれだけ経営者が熱くなっていても、その思いを本当に伝えられなければ、「売り込み」と変わらない。
福島社長は、お客様に思いを伝えることと同様に、社員達にも日々のコミュニケーションの中から、その思いを伝えるようにしている。
しかも取引先に対しても同じことを実践する。「思いを伝える」という価値観を誰に対しても、徹底的に実践しているのだ。
お客様に対して、実現したいことは、日々の行動から実践しなければ、何も変わらない。
そして、普段出来ていないことは、お客様に対しても出来るはずがないのだと福島社長は言う。
『最も徹底しなければいけないのは、経営者である』と・・・・
 
●新たな流通モデルづくり
最近までの10年間程、赤字が続いていた栃木県のスーパー「三桝屋」。
そんな赤字スーパーが福島の教えで売り場を改装し、去年、黒字化を実現させた。
赤字を脱却した「三桝屋」の社長が絶賛した、福島の仕掛けこそ、全国の隠れた逸品を集めた「津々浦々物語」と呼ばれる仕掛け棚である。実は、福島屋には
「ミセス・プロズ・スマイルズ」(MPS)というチームがある。これは20代から60代の幅広い層の主婦14名からなるチームである。

男性目線で、「棚とはどうあるべきか?」と考えるのではなく、主婦目線で「自分ならどんなものが並んでいたら買うだろうか?」と見る視点こそMPSで、それを「毎週」会議するのだそうだ。
しかも単にその意見を聞くだけでなく、マーケティング調査と売り場づくりまで担当させてしまうのだ。
例えば、「コーヒーの棚を改善したい」という要望があればそのMPSの担当者に任せる。
その結果、完成させた棚には、「コーヒー担当の○○が美味しいと思い、選びました」というようなPOPが、表示される。
実はコレ、福島屋にもある人気コーナーで、テスト販売で得た客の意見をメーカー側にフィードバックし、結果として、商品改善に役立ててもらい、更に、より良い商品を作るサイクルを生み出すのである。
福島屋の次なる戦略は、メーカー・スーパー・顧客の3者がメリットを享受できる仕組みを生み出すこと。

福島屋に学ぶ思いの伝え方とは、経営者が自ら体現し、あらゆる場面で「伝える」ことを徹底することだとあらためて学ばされる。

 


2016.01.28 Thursday

“一流の戦略”より“一流の実行力”


【二流の戦略、一流の実行力】
「大不況こそ変化・飛躍のとき」などとよく言われる。だが実際には、潰れてしまう企業のほうが圧倒的に多い。そんなピンチをチャンスに変えた企業といえば、ダイキンを思い浮かべる方も多いのではないか。

今でこそ、ダイキンは、バブル崩壊からリーマンショックに至る数々の危機を乗り越え、真にグローバルな「空調メーカー」の地位を築いている。
しかし、経営の原動力となっているのは、「実行力」を基盤とする、正に凡事徹底の極みだという。
そのダイキンを立て直し、業界での不動の地位を築きあげたのが現会長の井上礼之 氏である。
井上氏は、社長就任以来、とにかく現場に行き、話し合い、走りながら考え、方向性が見えたら、迷うことなく決断するということを徹底して継続してきた。

かつてダイキンは、大赤字に陥った暗黒時代がある。その当時は、年商 3700億円の大阪の老舗メーカーであった。そのどん底のタイミングで、井上氏は、社長に就任した。
しかしその会社を20年で売上高1兆7800億円を誇る世界企業へと成長を遂げさせたのだ。
かつては、国内の中堅メーカーに過ぎなかったダイキンを世界企業へと躍進させた井上改革。
そこには全く常識にとらわれない柔軟な戦略と、果敢な挑戦に実現できる圧倒的な人材力にあったのだ。

【“世界のダイキン”を生んだ大胆戦略】
ダイキンは元々、日本初の一体型エアコンや、ビル向けエアコンを開発するなど、業務用エアコンで高いシェアを誇ってきた。しかしバブル崩壊後、様々な分野に手を伸ばした多角経営が行き詰まり、赤字に転落。そんな94年に、創業家からバトンを渡されたのが、井上会長だった。
井上は、様々な部門からの撤退を決断、空調事業へ資源を集中させる戦略をとる。
そして、現場からすると無謀と思えるような大胆な戦略を次々と実行、数々の大逆転伝説を残してきた。
例えば、ルームエアコン撤退から逆転、「ぴちょん君」で有名なエアコン「うるるとさらら」を大ヒットさせシェアトップへ。さらに冷房文化がほとんどなかった欧州での急拡大。
そして中国市場での奇跡的な成長・・・その全てが、大胆戦略によるものなのだ。

【最高の人材育成術】
20代はキャリア形成で重要な時期だ。責任ある仕事を徐々に任され、失敗しながら成長していく。
仕事の面白さも覚え、自信をつけていく。発想が柔軟な20代に企業側がどんな仕事を与えられるか。
世界で日本企業が勝ち抜くには、20代の育て方を変えなければならない。

この日本には資質のある優秀な若者がたくさんいる。だが一度、企業に就職すると、5年ほどで組織の風土に染まってしまう。先輩の思考や行動パターンが知らず知らずのうちに身につく。
好奇心が旺盛で行動力のある若い人材が失敗を恐れ、新しいことに挑戦しなくなるのは20代後半ぐらいからだ。

ダイキンは入社2〜5年目ぐらいの若手から資質があると見込んだ社員を、一年に10人前後選ぶ。
そして、幹部候補者として育成するプログラムを導入したのだ。
例えば、一人ひとりに「ミャンマーに進出する。どんな販売網を構築すべきか」などの課題を与え、海外に派遣して戦略を提出させる。指揮命令は配属先の上司ではなく、会長と社長というのも驚きだ。
賛否両論あったが、育成は30代になってからでは遅いと判断したからだそうだ。幹部候補者といっても、
資格や賃金は同期入社の社員と差を付けず、修羅場で経験を積ませるのだ。


【困難を、信じて任せろ!】
大胆な戦略を次々と成功させてきた井上会長。それを支えるのは、その戦略を高いモチベーションで執念深く実行できる社員たちである。そんな人材を作る秘密は、「厳しい困難を、信頼して任せる」文化にある。
例えば、ダイキンの子会社「サンライズ摂津」の場合、社員のほとんどが障がい者である。
しかし、決して彼らを特別扱いせず、営業からコストダウンまで、厳しいビジネスの責任を、社員たちに任せきることで、高いモチベーションと、黒字経営という結果を生み出しているのだ。

ダイキンの社員たちは、一見無謀とも思えることでも、「困難を任せる」という人材術がベースとなって、成長していく。
例えば、毎年恒例の盆踊り大会の場合、2万5千人が訪れるという大会をゼロから企画・運営するのは、入社2、3年目の若い社員たち。彼らは仕事そっちのけで、地元の一般客へも解放する巨大な盆踊り大会の運営を任され、困難に立ち向かう力を養うのだ。

組織風土も非常に特徴があり、様々な活動の中で新入社員たちの心を動かすのは、先輩社員たちが全身全霊で自分たちを歓迎し、受け入れようとする姿だそうだ。
この脈々と組織内に流れる情熱こそ、ダイキンを支える原動力の根幹であることを改めて感じるのである。


2015.10.30 Friday

切れ味抜群の戦略と精神

●原点は野鍛冶の精神
日本最大の刃物の町、岐阜県関市。この地には、かつて「カミソリの替え刃」で大躍進をした100年企業がある。

男性の方なら一度は聞いたことがあるであろうブランド「貝印」の貝印株式会社だ。鎌倉時代、岐阜県関市には良質な土・水・炭を求めて多くの刀鍛冶が移り住んだ。室町時代になり刀工・孫六兼定が数々の名刀を造り、「関の孫六」で広く知られるようになった。以来、関市は刃物の街として伝統を受け継いできた。昔の刀工達は日本刀の銘のように、自らの作品には自分の名前を刻み、作者を明らかにすることで品質を保証する伝統があった。

1908年、この地で初代・遠藤斉治郎がナイフ造りを始める。

二代目・遠藤斉治郎はナイフやカミソリは小さくて名前を刻むのは困難なため、名前を刻む代わりに「帆立貝」のマークを刻むことにした。古代では刃物の代用として貝が用いられていたからだ。帆立貝は形が美しいうえに、扇のように末広がりで縁起が良いこと。さらに二代目・斉治郎が改名する前の名前・繁と、貝の英語発音シェルの発音が似ていることから帆立貝マークが考案された。現社名の由来ともなった貝印は、爆発的な人気商品となった使い捨て型カミソリの、品質を保証するマークとして市場の信頼を勝ち得ることになる。
 

●ブランド「貝印」
1982年になり、貝印が一般にも認知されるようになり、社名を「貝印刃物」に変更。その後、刃物類では業界屈指のメーカーに成長する。カミソリのシェアーが高まるにつけ国内では圧倒的知名度となったが、海外では無名の存在であった。取扱商品も鍋や釜など一万点あまりに増えたことと、海外でも通用するブランドを目指すため、1988年に創業80周年を迎えたのを機に、コーポレートアイデンティティーを導入した。社名からも刃物を除き「貝印」とする。貝印マークもKAIの文字を塗りつぶして鋭い刃物で切り出したようなデザインに変更。創業以来の主力商品である刃物の、切れ味を強調するブランドマークとした。社員の間では通称「エッジマーク」と呼ばれ、ソニーのウォークマン生みの親と云われる黒木靖夫の協力で製作された。さらに、KAIブランドのみで一万点あまりに増えた商品を、一つのブランドで網羅するのが困難となり、商品別ブランドも展開するようになった。


●日本の技術を海外に
1989年に貝印グループ三代目社長に就任した遠藤宏治のブランド戦略は、海外でも実を結ぶようになる。2000年に米国で投入した包丁ブランド「旬=SHUN」は、4年後に大ブレーク。

2008年には年間55万丁を売り上げるヒット商品となった。包丁単体では全米ナンバーワンのヒットシリーズである。大々的にCMを打ったわけでも、販促のためのイベントを仕掛けた訳でもなかった。米国での日本食ブームもあり、料理人から料理人へと品質の良さが口コミで広がっていった。

2005年にはミシュラン三つ星シェフであるミシェル・ブラスとコラボレートした包丁「Michel BRAS」を発売。中国、米国、ベトナムなどにも現地工場を立ち上げ、海外戦略を加速させて製造のグローバル化を推進。但し、刃物を造るコア技術の海外流出には神経を尖らせており、コア技術だけは国内に留め、高い技術力を維持する戦略である。日本市場は世界で最も品質に厳しく、国内市場で揉まれた商品は、細かい部分にまで気配りがされている。遠藤社長は国内市場で成功した商品は海外でも必ず受け入れられると考えている。因って、貝印グループは国内に軸足を置いた物づくりに取り組み、日本を起点としたグローバル企業を目指そうとしている。

刀鍛冶は、その刀を使う武士の生活や癖など、使い手の話を聞きながら魂を込めながら造るという。貝印は刃物の街に脈々と受け継がれてきた「野鍛冶」の精神を忘れずに、品質の高い商品やサービスを世界に届けている。



荒井 浩通

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